ハーブ療法の母・聖ヒルデガルトの自然学(14)
聖ヒルデガルトの美学とリングア・イグノタ (Lingua Ignota)
先日、ようやく聖ヒルデガルトのラテン語の古文書が手に入りました。故大槻先生の元でドイツ語や英語の本を訳していましたが、翻訳の翻訳になると植物が違ったり、解釈が翻訳者によって変わるので原本のテキストを探していました。
デジタル化はこちらです。
『神の御業の書』(Liber Divinorum Operum)
https://www.loc.gov/resource/gdcwdl.wdl_21658/?st=gallery
『道をしれ』(Liber Scivias)
https://digi.ub.uni-heidelberg.de/diglit/salX16/0001/thumbs
なぜ今、聖ヒルデガルトの自然学が注目されているか。世界大戦後のドイツでは、食べ物がなくなり、身近なもので薬になるものは、と薬剤師や学者が探した際、図書館にひっそりと見つかった聖ヒルデガルトの古文書に自然療法の原点を見出し、ヘルツカ博士と薬剤師のエレン・ブランドル氏がヒルデガルト・ルネサンスとして療法を実践し、解説本を出版しました。
イラン戦争後のアメリカでは聖ヒルデガルトの音楽が癒しの音楽とされ、インスパイアされた作品も数多く出ています。この世界規模でのパンデミックに際し、中世のペスト(病)に際して使われたこの古くて新しい療法はまた研究されています。聖ヒルデガルトはその地の旬な作物や薬草、魚を感謝と共にいただく食事と、瞑想や断食を含んだ健康的な生活をすすめました。
生活の質を高めることは人々の健康を維持し身体改革のカギになります。女性が書物を書くことが許されなかった時代に法王に認めてもらい、『病因と治療』という健やかに生きていく知恵を残した彼女の療法はウェルビーイング(Well-being)「身体的、精神的、社会的に、良好な状態になること」を意味する概念に通じます。
彼女は美しい服に花冠、宝石を身に着けた修道女たちに歌劇を演じさせました。それに対する批判の手紙に「天上の王キリストの花嫁として当然であり、神の息を吹き込まれ、土の器である人は美しい音色を鳴らすのです」と答えています。
『新版 美/学』(酒井紀幸/山本恵子編著 大学教育出版 2009/07)の「4 ヒルデガルトにおける神体験と美」に「彼女にとって美は、それがどれだけ神的であるかの度合を示し」とあり、彼女の見た神の姿は光り輝く美であり悪魔は醜いと。
日本語の「美学」はもともとドイツ語のAsthetikの訳語で美の本質を問い美を対象とする学問的考察を指し、前585頃「最も美しいのは宇宙世界である」タレス、前470~399「善く生きること」としたソクラテス、「美とイデア・エロースと美」を説くプラトン、354~430キリスト教の「美そのものとしての神」、音楽と教会「音楽は調和」としたアゥグスティヌスに続く彼女の美学は象徴的解釈だと。薬草の花冠はまさにそれではないでしょうか。
ドイツで食べられる花もしくは無農薬で育てた庭の花を摘んでそれを氷(アイスキューブ)にし、レモンバームやフェンネル共に水出しした飲み物をヒルデガルト療法を実践しているホテルなどでは用意されていました。綺麗でした。
そして、知られざる言葉、知られざる文字 (lingua ignota、litterae ignotae)を残します。ゴシック=ルーン文字に似、ギリシア語の影響あるのではないかと思われるラテン語ではない彼女独自の言葉と略字です。
教皇アナスタシウス4世(在位1153-54)宛の手紙に「神はこの者[ヒルデガルト]が奇蹟を幻視し、知られざる文字を組み立て、知られざる言葉を生み出し、様々のそれ自体において調和している旋律(メロディ)を響かせるようにとおぼしめされたのである。神のおぼしめしで私は知られざる言葉を生み出し、知られざる文字を書いている」とあります。
巫女と審神者(祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者)の間のようなものが暗示されていると。映画にもなったウンベルト・エーコ『薔薇の名前』(1980)でもサルヴァトーレ修道士のセリフや『完全言語の探究』(1993)にも「魔術的な言葉「異言」のようなものでないか」と書かれています。
しかし、2007年アメリカの中世言語研究者サラ・ヒグリー『Hildegard of Bingen’s Unknown Language』でこの「知られざる言葉は中世の百科事典のようなもの」と読み解きます。総数1006、Musimia[nuzmuscata]:肉荳(にくずく)ナツメグ、Malskir[dens]:歯、Aigonz/ Aieganz [angelus]:天使、Korzinthi[propheta]:預言者と治療、植物学、解剖学と薬学関係の用語が並びます。
これらはまた響きとリズムを考えた音響詩としての「知られざる言葉」です。ヒルデガルトにとっての身体は、神の声を受け止め、美しい響きとして放出する魂の容器だったのではと。まさに美学を追及していたのではないでしょうか。
「健やかであれ。病を避けよ」「自然と共に生きる」「感謝と愛、謙虚な態度」「美しさと健やかな心と身体・魂」。彼女の言葉をもって皆様のご健勝を祈ります。
<参考文献>
・ 『ヒルデガルトの音楽と言葉 声を発し、記す身体』柿沼敏江著
・ 『ビンゲンのヒルデガルトの世界』種村季弘著(青土社、 2002年)
初出:特定非営利活動法人日本メディカルハーブ協会会報誌『 MEDICAL HERB』第61号 2022年9月