ディオスコリデスの時代とその思想: ディオスコリデスの時代
ディオスコリデスの『薬物誌』(De Materia Medica)は、ヨーロッパのみでなくアラブ世界においても後々まで大きな影響力を持つよく知られた著作だった。
しかし著者のディオスコリデスはその生卒年すらよくわからない。従来知られていることは、キリキアのアナザルブス(ないしアナザルベ、アナザルバ)出身であること、また『薬物誌』第1巻冒頭の序から、軍務に携わり多くの土地を訪れたこと、若い時から薬物研究に志し、特に植物については自ら観察し、その土地の人々からの調査も行い、精確を期したことが知られる。
この調査研究には軍医としての経験が大いに役立ったと思われる。その時代はクラウディウス帝およびネロ帝(41~68年)治下だったようである。『薬物誌』には、プリニウスの『博物誌』の植物に関する記述と重複する部分が多い。これは両者が同じ文献に基づいて著作したためで互いに相手の著書を典拠としたわけでないことから、『薬物誌』と『博物誌』はいわば同時並行的に書かれたとされる。
そしてプリニウスが『博物誌』を77年にティトゥス帝に献呈していることから推すと、『薬物誌』も『博物誌』がティトゥス帝に献呈された頃には出来上がっていたらしい。
ミセヌムの艦隊の提督となったプリニウスは79年8月24日にポンペイから数キロメートル離れたスタビアエからベスビオ火山噴火後の状況を観察するために現地に赴き、カステラマレの海岸で火山性有毒ガスのために窒息死した。
これはいわば公務中の不慮の死なので、ディオスコリデスのほうは彼の死後もしばらくは活動していたように思われる。23ないし24年に北イタリアのコモで生まれたプリニウスは騎士階級の出身で、軍人・官僚としていわばエリートコースを歩み、艦隊の提督にまでなって前述のような最期を迎えた。
一方、ディオスコリデスは、ギリシア語の話されるローマ帝国東部を主たる活動域とする軍医として地味な生涯をおくったとすれば、両者が共通の典拠によって著作しながら知り合う機会がなかったのも当然であろう。
またディオスコリデスには、たんに典拠の所説をそのまま引用せず自ら確認しようとする、いわば科学的な態度がうかがわれる。迷信や奇異な伝承は排除するか、取り上げるにしても批判したり伝聞の形にしたりする。他方、プリニウスの『博物誌』の特に第28巻から第30巻には迷信的あるいは呪術的な記録がかなり多く採用されている。
1世紀頃になるとパルティア王国との交流を介して東方の神秘的呪術的思考がローマに流入し大衆の間に浸透してきたので、その影響を受けたのであろう。博物学者と医学者の相異がこういうところにも現れているように思われる。
一言すると、ディオスコリデスが軍医だったことを否定する説もある。『薬物誌』第1巻冒頭の序に’stratiotikon ton bion’とあり、stratiotikosというギリシア語の形容詞が「軍人の」「軍に関する」を意味することから軍医とされてきた。だがこの説では、民間の医師として、帝国東部地域で旅を重ねて現地の人々の話を聞き、必要最小限の飲食、衣料でしのいだ当時の生活が兵士のようだったから、こういう形容詞を用いたとする。
しかし、巡回医師としての活動を表すには’periodeutikos’という、より適切なギリシア語形容詞があるので、軍医説を否定する必要はないだろう。
遡ってディオスコリデスの生まれた時代を推測すると、かなり想定範囲が広くなるがティベリウス‐カリグラ帝の頃(14〜41年)とする説が妥当なようである。当時の医学教育の中心地としてアレクサンドリア、ランディケイア、エペソスなどが挙げられるが、彼の出身地キリキアの1都市タルソスもそのひとつだった。
そこでは植物を主とする薬物の研究が行われ、優れた教師も集まっていたようである。ディオスコリデスが『薬物誌』序で自ら「若年時から薬物の研究をしたいという絶えざる意欲を持っていた」と語るのも、当時のタルソスでの彼の勉学と関連するのであろう。
冒頭の序や第2巻以降の各巻の初めに言及されるアレイオスも、そういう教師の1人だったようである。彼はタルソス出身のネロ帝時代のギリシア人医師で、ラエカニウス・アレイオスともいう。ラエカニウスは、序の中でアレイオスとの親密な交流があったとされる64年に執政官を務めたガイウス・ラエカニウス・バススのことで、アレイオスは彼のいわば後援者の名を自身のギリシア名に加えたのである。アレイオスは、ローマに新たな医学説をもたらしたアスクレピアデスの信奉者で、『薬物集成』という著書があったとされるが現存しない。
この点からいうと、アレイオスはローマ時代の最有力医学派のひとつだった、いわゆる方法学派の系統に連なる。ディオスコリデスはアレイオスに言及する際に敬意を表するような言い回しをしているが、特にディオスコリデスの教師だったのではあるまい。『薬物誌』序に方法学派の薬物論に対する批判が見えることから推すと、アレイオスはディオスコリデスにとって共に研鑽を積んだ尊敬すべき親しい先達だったのであろう。
先行する各医学派との関係については、次回のディオスコリデスの思想とその背景に関する記述でもう少し検討する。
[参考文献]
- T. C. Allbutt, Greek Medicine in Rome, MacMillan and co., 1921
- Heinrich von Staden, HEROPHILUS, The Art of Medicine in Early Alexandria, Cambridge University Press, 1989
- J. T. Vallance, The Lost Theory of Asclepiades of Bithynia, Clarendon Press, 1990
- Fritz Steckerl,“The Fragments of Praxagoras of Cos and his School”, E. J. Brill, 1958
- 大槻真一郎『ディオスコリデスの薬物誌』別冊「ディオスコリデス研究」、エンタプライズ社、一九八三年
- 小林雅夫『古代ローマのヒューマニズム』原書房、二〇一〇年
初出:特定非営利活動法人日本メディカルハーブ協会会報誌『 MEDICAL HERB』第61号 2022年9月